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「スポーツ愛にあふれていた…」 メジャー競技委員、ゴルフ場設計家、マネジメント… 日本ゴルフ界を支えた川田太三さんを偲ぶ

2026/07/28 17:00

82歳で亡くなった川田太三氏(提供:清流舎)

川田太三(かわた・たいぞう)氏が亡くなった。ゴルフ場設計家としてだけでなく、様々な“顔”を持ち、その広い人脈で現代の日本ゴルフ界を支え続けた人だった。 【写真】笑顔でジャンボ尾崎を送り出すまな弟子たち 25日に82歳で死去した川田氏について、一言で表すのは難しい。ゴルフ場設計家であり、ゴルフ解説者であり、プロゴルファーのマネジメント業務のパイオニアであり、日本ゴルフ協会(JGA)の委員としてナショナルチームの監督、団長などを何度も務めた。1990年「全英オープン」を皮切りに、「全米オープン」、「マスターズ」、「全米シニアオープン」の海外メジャーの競技委員として大舞台を支えた人でもある。1944年、東京都荒川区生まれ。32年「ロス五輪」の水泳800メートルリレー日本代表補欠だった父を持つスポーツ一家で育った。水泳を経験し、立教中学時代から野球の世界に身を置いていた。ポジションは捕手。立教高校3年時にはスカウトされて、米オハイオ州立大にフルスカラシップで留学した。オハイオ州立大の名前に、ディープなゴルフファンなら反応するかもしれない。そう、ジャック・ニクラスの母校だ。4歳年上のニクラウスとは知人の縁で面識があり、後日、ゴルフの世界で再会している。ゴルフは留学前、父にサンドウェッジを「打たされた」ことと、留学中にオハイオ州立大のコースを一度ラウンドしただけ。帰国後に64年「東京五輪」の通訳をしたことで、スポーツビジネスの世界と縁ができた。ゴルフに熱中したのは、東京五輪後のこと。父がメンバーだった霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉県)に通った。「毎日練習していたら、冬の間に那須ゴルフ倶楽部から来ていた小針春芳プロが教えてくれた」と話していたというエピソードもある。あっという間に上達して、さらにゴルフにのめりこみ、67、68年は「日本オープン」にも出場。本格的にゴルフを始めてからわずか3年というスピードでのナショナルオープン出場だった。ゴルフとは縁のない仕事をしていたが、31歳で独立。テレビが爆発的に普及し、欧米のゴルフ番組が入ってきた時期だったため、その翻訳の仕事を始めた。高額なオープンリールのビデオデッキを自腹で購入し、時間のかかるその作業が、ゴルフの仕事の始まりだった。その後、テレビ解説の仕事にも携わるようになる。やがて、倉本昌弘に依頼されてマネジメントを始めた。牧野裕、小田美岐、平瀬真由美、レックス倉本(泰信)、川岸良兼、服部道子、喜多麻子…。ナショナルチーム出身のプロの多くが川田氏を頼った。個人競技のゴルフの世界では、当時、マネジメント会社などなく、そのパイオニアだった。日本ゴルフ協会(JGA)の仕事でも力を発揮した。84年からは世界アマ日本代表チームの団長を務め、競技委員も引き受けた。その縁で、R&Aのメンバーに推薦される。欧州対アジア・太平洋の2年に1度の対抗戦「ボナラック・トロフィー」では、キャプテンとして2002年、04年と激戦を制して連覇を果たしている。ゴルフ場設計については、57年の「カナダカップ」開催時、霞ヶ関CCのコースレイアウトを書き写したのが始まりだった。興味を持っていくつものコースで同様のことを行ったことが、85年からの仕事につながり、晩年までゴルフ場リノベーションの仕事も続けていた。多角的な活動で大きく広がった川田氏の人脈もあり、14年の世界アマは軽井沢72ゴルフ東コース(入山・押立)で行われた。「スポーツおたく」を自任するだけに、ゴルフに限らず、スポーツへの興味は尽きず、記録などもすっかり頭に入っていた。執筆活動はもちろんのこと、著書だけでなく、日常会話でもスポーツの魅力を伝え続けた。筆者もその恩恵にあずかった一人。時に厳しい批判を口にすることもあったが、それも、スポーツに対する愛あればこそだった。R.I.P.(文・清流舎 小川淳子)